【雑記】タイムアタックとは

 

「日本の弓術」という本を読みました。弓道通して禅を学んだドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルの体験記です。

彼の(というか西欧の)合理的・論理的な精神 VS 日本の非合理的・直観的な思考、みたいな構図で、いかに彼がそれらを学んでいったのかという内容なのですが、これがなんとなくモンハンのTAにも通ずるものがあるなと感じ、今こうして書き散らしています。

 

一般に弓術と聞くと、

①弓=スポーツ

②術=その能力

のようにも考えられますが、

ヘリゲルは「弓も矢も仮託に過ぎない。目的に至る道であり、目的そのものではない。」と記しています。そして、その目的は神秘的合一(ウーニオミスチカ)、つまり仏陀の発現である、とも。何て?

つまり、弓術とは、弓と矢を使って外的に何かを成そうというのではない。

弓術とは、精神的・神秘的修練であり、自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうという、そういう試みであるというらしいのです。

これをモンハンのTAに当てはめて、TA(=弓術)とはある種の能力、つまりタイムを競うものではなく、その過程における精神的修練こそが実の目的なのではないか、と言いたいわけです。

なお、「自分自身を相手にして果たされる何事か」については、この本では「沈思」として語られています。これはどうやら、「現世及び自己からの訣別、無に帰し、しかもそのためかえって無限に充たされること」だそうです。

無我とか、非有の中の有とか、そんな感じのやつです。真の沈思においてはあらゆる思考と意欲、感情も、全てなくなるとヘリゲルは語っています。小型ァ!とかは言いません。

 

弓を習い始めて3年目の夏の休暇中、ヘリゲルは弓術の熟達に壁を感じ、師である阿波師範の教え(=”精神的”な特訓)を破り、”技巧的”な特訓をし始めます。どうしたらより上手く的を射当てることができるのかを理論的に考察し、そして実際に上達します。技巧的には。

夏休み明け、阿波師範は、技巧的に的を射抜くようになったヘリゲルを見て、大きく失望します。弓術の本質が単に的を射当てることになかったからでしょう。

ヘリゲルは深く反省し、その後は師の教えに従い盲目的に練習に打ち込むようになります。そして4年目になる頃、ヘリゲルは初めて阿波師範に完全に認められる発射に成功し、"技巧"の呪縛からは完全に解き放たれました。

「どのようにして正しい射法をするのかと問われれば、私は知らないとしか答えることができない。自分は少しも手を加えず、またそれがどうなるか見守ることもできないが、矢はすでに放たれているのだった。」

 

膨大な反復の中で培われたあなたの「無我の動き」にこそ仏陀が宿り――いえ、そのときはあなた自身が仏陀であり――その果てで、勝手にモンスターの骸が、タイムがあらわれるのです。

……精神的修練になるようなものを果たしてゲームと呼ぶかどうかについては、ノーコメントとさせて頂きます。